辺見庸原作映画『月』を観たら

辺見庸の小説『月』が映画化されてました。2023年公開というのでついこの間の映画ですね(原作は2018年刊)。
ゆっくり落ち着いて鑑賞したかったので、連休中に鑑賞を設定。
理想的にじっくり鑑賞できました。

映画『月』Amazonプライムビデオ

以前ブログで原作を途中まで読んだ感想書いてました( →日曜の朝早起きしてテレビ見て本屋に行って辺見庸『月』を買った)が、映画化は知りませんでした。
Amazonプライムビデオのサムネイルで『月』という映画があるのは目にしていましたが、辺見庸の『月』とは結びつけられなくて観ていませんでした。

それでもどこか心にひっかかるものがあったのでしょう、ある日辺見庸原作の映画だと知り、「マジかよ!」と鑑賞リストに入れたのでした。
この「マジかよ!」は、「あれが映画化できんのかよ!」という驚きの「マジかよ!」でした。「辺見庸原作の映画」というだけでも驚きなのに、よりによって『月』とは。

迂闊にも読了後の感想を書いていませんでしたが、私にとっては辺見庸『月』は、他の何かでは得難い読書体験でした。こんなの読んだことない。SF小説を読んでなんとも不思議な、実際には経験できないことを経験したような気になることはありますが、そういうものに加え、身をえぐられるような初めての感覚。
「これ映画になるのかよ」「どうやったんだよ?」
という興味も持ちつつの鑑賞。

結果。

「ああ、そう来たか」

でした。

「宮沢りえが出てる」くらいの前情報だけで見始めましたが、あの、読者の内面をも容赦なく徹底的に抉っていくような小説を映画化するにはワンクッションというかフィルターというかクランクみたいなものを噛ませなきゃいけなくて、それが宮沢りえとオダギリジョーの夫婦とその夫婦が抱える疵と悲しみだったんだと思います。
これ自体は原作に全く無い要素なので、原作を読んでから映画鑑賞に至った人には評価が分かれるところかと思います。
私はとにかく「そう来たか」でした。

原作は加害者と被害者の内面を同じくらいの力で抉っていく内容です(と簡単な言葉で括ってはいけないことは百も承知で書いてるんですよ)、映画では宮沢りえがその加害者と被害者両方に共感する(させる)存在として描かれていると思いました。表面的なエピソードとしては違いますが、観客には同じ要素を届けている、そう感じました。
被害者にも加害者にも共感している宮沢りえに観客が感情移入できるかがこの映画の勝負どころで、そこまでに何度もハラハラし、何度か涙した私は、この悲しすぎる終盤にも心を持ってかれました。

映画化に対して「そう来たか」とか偉そうな書き方をしましたが、この「そう来たか」は、「その手があったか」みたいな、工夫に対する賞賛に近いものでした。原作のエッセンスは盛り込まれていたと思います。宮沢りえを作家に設定したのも、言葉の大切さを伝えていてよかったと思います。
ちょっと心配なのは、原作も、原作が書かれた経緯も知らずに映画を観た人が終盤の出来事を飲み込めるのかというところです。
心配というかどう感じたか知りたいです。
私は何度か涙しながら、その他の何色もの感情も入り混じるいい映画鑑賞でした。
少なくとも原作やそれが書かれることになった現実に起きた事件について知っている人にはぜひ鑑賞してほしいです。
そして何より。
全ての人に。
辺見庸の『月』をお薦めします。
これ本気ですよ。

月 (角川文庫) 文庫

linelink01

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