ティグリス川・ユーフラテス川流域のメソポタミア、ナイル川流域のエジプトは、ヨーロッパから見て「東方」にあるため、「オリエント」と呼ばれます。今で言うと「中東」です。
文明が起こった場所起点ではなく、後に文明が伝わって行ったヨーロッパ目線の定義ということですね。
オリエントはざっくりメソポタミアとエジプト
地中海からティグリス川・ユーフラテス川流域に沿ってペルシア湾に至る地帯が「肥沃な三日月地帯」です。
川の増水を利用した灌漑農業 →大規模な定住が、紀元前3000年頃から高度な文明を発生させ、その豊かさを求めてアラビア半島や周辺からセム語系や、インド=ヨーロッパ系の人々が移住して来ました。
豊かになると狙われる
シュメール人の都市国家がたくさんできて、文化も栄えたメソポタミアですが、紀元前24世紀にはアッカド人に征服されてしまいます。
ちなみにシュメール人は民族系統不明、アッカド人はセム語系の民族です。
そのアッカド人がメソポタミアを最初に統一しましたが後に崩壊、同じセム語系のアムル人が国家を起こします。
これがバビロン第1王朝で、ハンムラビ王(「目には目を」のハンムラビ法典で有名な王様ですね)の時代に大規模な治水工事を行うなどして豊かになり文明も栄えますが、おかげで周辺民族が豊かさを求めて侵入して来ます。
その中に早くから鉄製の武器を使用していたヒッタイト人がいてバビロン第1王朝は滅ぼされてしまいます。
バビロン第1王朝滅亡後のオリエント世界は、紀元前15〜14世紀以降カーッシート人やミタンニ王国などが並立する状況になりました。
統一、崩壊、征服、また滅亡、いろいろ並立となったメソポタミア世界ですが、シュメール人が作った楔形文字は粘土板に刻まれ、他言語の民族にも使われたり、六〇進法、太陰暦、その補正版である太陰太陽暦が作られるなどしました。
一方その頃エジプトでは
メソポタミアの肥沃な三日月地帯からシリア、パレスチナを経て南下するとナイル川流域のエジプトです。
エジプトではメソポタミアより早い紀元前3000年頃、生ける神(ファラオ)による統一国家が生まれました。
生ける神など、宗教を用いた政治を神権政治と呼びます。
ピラミッドもミイラも「死者の書」も神聖文字(ヒエログリフ。墳墓、石棺何度に刻まれた)と民用文字(デモティック。パピルスに書かれた)の使い分けも、生ける神の必要性から生まれて来たものなんですね。
大規模な治水工事を行う大量の労働力が必要で、それを統率するために宗教が必要だったのです。
遊牧民だったヘブライ人はパレスチナを経て、その一部がエジプトに移住しますが、ファラオの圧政に遭い、モーセの指導でパレスチナに脱出することになります(出エジプト)。
ヘブライ人は紀元前10世紀頃ダヴィデ王、その子のソロモン王の元で栄えていましたが後に分裂、一方は滅亡、一方はバビロニアに征服され、住民はバビロンに連れ去られてしまいます。これが「バビロン捕囚」です。
「バビロン捕囚」。どこかで聴いたことはあった言葉ですが、こういうことだったんですね。
オリエントの統一分裂再統一
シリア、パレスチナを介して行き来のあったメソポタミアとエジプトですが、紀元前7世紀にアッシリア王国によって統一されます。
アッシリア王は国内を州に分け、駅伝制を設け、総督を置いて統治しますが、圧政、重税から反抗を招き、前612年には崩壊、オリエント世界はエジプト、リディア、新バビロニア、メディアの4王国分立となります。
その後、イラン人のキュロス2世がアケメネス朝を興し、メディア、リディア両王国を征服、前539年にはバビロンを開城。翌年に捕囚となっていたユダヤ人を解放しました。
こうしてアッシリア王国は、第3代のダイオレス1世の時代には、メソポタミアからエジプト、エーゲ海北岸、そこから北上して黒海、東へ転じてカスピ海を遥かに越え、弧を描きながら南下してインダス川にまでを領域とする大帝国となり、オリエント世界は再び統一されたのでした。
再統一されたオリエント世界ですが、マケドニアのアレクサンドロス王がやって来て征服されたり滅ぼされたりしていきます。
征服だの滅亡だの虜囚だの物騒なことが起こるかたわらで、文明や文化といったものも生き残ったものが伝わっていったのでしょう。
というわけで今回はここまで。第3回までご機嫌ようさようなら!