556 どうせの哲学

梅雨も終盤。しかし雨具の準備を怠ってはいけない。雨が降ると濡れちゃうからね。
朝。アヤが備え怠りないように折りたたみ傘をたたんでいた。
なんか下手くそ。たたみ方が。ぐしゃぐしゃになってる。
絵も字も上手なアヤさん、意外な弱点。
オカーに「ヘッタクソだなぁ」と言われ、
「どうせまた開くんじゃん」

うむ。
そうだ。そうだね。でも。
「じゃ、どうせ汚れるからパンツも洗わないでおこうね」
オカーに反撃されてる。
そうだ。
ご飯を食べてもどうせ出しちゃうんだから食べなくてもいいじゃん。
学校行ってもどうせ帰ってくるんだから行かなくていいじゃん。
毎日会社に行って給料もらってもどうせ使っちゃうんだからもう働きたくないよ僕。
ちょっと違うか。

でもこの「どうせ」は、突き詰めると「どうせ死ぬんだから生きなくたっていいじゃん」とか、「どうせ」死ぬのに人間はなぜ生きるのだろう?という命題に行き着いてしまう。
哲学と呼んでいいだろう。哲学のプロトタイプはこの「どうせ死ぬのになぜ?」であると言っても過言ではない。
その昔誰かが考えたのだろう。
ギリシャの丘の上かなんかで。夕日を眺めながら。
「どうせ死ぬのになぜ生きねばならぬのか」
誰か。なんとかテレスとかなんとかメデスとか走れメロスとかが。

だから傘もきれいにたたまなきゃいけないし、パンツも洗わなきゃいけないし、ご飯を食べて働かなきゃいけないことになったのだ。メロスがそんなこと考えたばっかりに人は労働という監獄に囚われたのだ。おのれメロス。

あ、日々棒組み556は錆びるとか錆びないとかのお話をする約束だったね。誰も覚えてないだろうけど。
忘れてたよ。錆びていたのはわちきのおつむだったようでありんす。
ゴメンナサイ、もういいかげんな予告はしません。忘れちゃうからね、どうせ。

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