いつも気楽な周辺事態ばかり書いている私ですが、今日はちょっぴりまじめな話です。
先週、週のど真ん中の水曜日、新宿で大学時代の友人と飲んだ。
男三人、工作のイベントで日本中飛び回ってる芸能人と、チェーン店の書店勤め30年になる男、それに私。大学一年の時寮で出会ってからの長い友人。
いつもの思い出話で笑い、みなや家族の近況で笑い、楽しく飲んでいた。
やがて書店勤めの友人が言った。
「うちではあのほんはおかないんだ」
少年時代に児童を殺した犯人が書いたと言われているあの本を、彼が勤めている書店では売らないことにしたそうだ。
事前に版元の出版社に本の内容を尋ねても回答が無いまま配本当日を迎え、その時点で初めて本の内容を知った仕入れ担当の責任者が、これはうちの店には置かない、と判断したらしい。
「うちの店」といってもひとつではない。何十店舗もあるチェーン店なのだ。それを配本日に、つまり現物が動いているところで止めたのだ。
なんという勇気。
私が一番感心したのは、置けば間違いなく売れる本を置かないという判断そのものより、現物を目の前にしてその判断を通したことだ。
私も印刷、製本業界で働いてきた人間なので配本日の重さは知っている。一度決まった配本日を守るためにみな右往左往しているのだ。違えれば罰金という話も聞いたことがある。
その担当者は独断で本を置かないことを決定したらしいが、事後報告を受けた役員から社長まで、みなそれを支持したそうだ。正しい判断だった、と。
聞いている方のふたりはしきりに感心していた。
多くの書店があの本を置く理由はいくらでも言葉にできるだろう。買う買わないはお客さんの判断である、とか、一般読者が犯罪者の心理を知ることには意味がある、とか、売れるとわかっているものを売らない余裕はない、とか、すべての本の内容を把握して売るか売らないか決めるのは不可能である、とか。
全部もっともらしく聞こえるし嘘ではないだろう。
版元は事前に内容を明かさないことで発売時のインパクトを最大にし、書店に「この本を置くか置かないか」検討する時間を与えなかったが、おかげで書店側は、扱いに悩むことなく売れる商品を受け入れ、版元や取次とギクシャクすることもなく、社内の別れた意見を調整する手間もかけずに済んだ。「入っちゃった物はしょうがねぇよなぁ」と内心ホッとした人もいただろう(私だったらそうだ)。
受け入れてから後づけの言葉なんかいくらでも思いつく。当事者でない私でも。
正当化できる目盛りのついた物差しを振り回せばいいのだ。「利益」とか「効率」とかを測る目盛りのついた物差しは特に強力だ。でも。
現実に本が来ているタイミングで、つまりほぼ即決で本を置かない判断をした人がいたのだ。 現物を目の前にして、自分の体をその場に置いて、決まった流れを止め、逆に流すことはなかなかできることではない。 でもそれをした人はいたのだ。
私はこの本を読まないだろうが、別に不買運動を起こそうとか、本を出した出版社や置いている書店を非難するつもりでこれを書いているわけではない。褒めも同情もしないが。
ただ、本を置かないと決断してそれを通した人の勇気とその肚にあったものを想像して感動しただけだ。 私には決してできないそんなことをした人がいたということに。
その後三人の話はまた、家にツバメが巣を作ったの、従姉妹がお寺の住職になったのといった気楽な周辺事態に戻って行ったが、帰りの電車でひとりになった私は、この話を思い返し、しみじみと自分の生き方を考えてしまったのであった。
コメント
自分にメシを食わせてくれてきた「仕事」というモノに対して俺は誠実であったか?
てなことを浮世離れた仕事をしているように思われている俺も最近考えるんですよ。
だからこの話は重いね。
そしてこのようなこととをみんなの前挙げてくれるキミを俺は尊敬します。
この話は、ぜひ書きたいと思いつつ、でもちょっと迷って、話してくれた友人にも相談してアップしたものです。
あの本に関しては見る角度でいろいろ思うところはありますが、私の思いはこのエントリーのタイトルに込めてます。
ハエゲロくんにそう言ってもらえると、迷いつつ畏れつつ、それでも書いてよかったよ。
明日からはまた銀歯が取れたとかカーペットの毛羽立ってるところにつまづいたとかくだらない話が続くけど見捨てないでね。