日曜の朝早起きしてテレビ見て本屋に行って辺見庸『月』を買った

活字の子 活字の子

日曜日に早起きしたので、録画が溜まっていた『新・必殺仕置人』でも観ようかとテレビをつけたら辺見庸が喋っていた。
なんだろうと番組表で確認すると、NHKの『こころの時代~宗教・人生~「“在る”をめぐって」』という番組で、1時間枠のすでに20分ほど経過していた日曜日の朝5時20分。

再放送か?と思ったがそうではないらしく、ここからでもと観始めた。
途中からなので何を語っているのかなかなかつかめなかったが、しきりに「在る(ある)」または「在ること」という言葉を発している。
「奴を死刑にすべきではない」
というような言葉も出てくる。
奴?

しばらく観ていて少しずつわかったのは、2016年に起きた相模原障害者施設殺傷事件と、事件をきっかけに自分が書いた小説について語っているということだ。
事件について語り、自作について語り、講演会の様子なども放送された。
ああ、最初から見たかったな。
と番組表を探したら1月19日土曜日の午後1時からNHKのEテレで再放送があるので録画予約した。

こころの時代~宗教・人生~「“在る”をめぐって」

本屋が開く時間になったので番組で語られていた辺見庸の新刊『月』を買おうと出かけたが、自転車で2軒回ったが見つけられなかった。
電子書籍もあったが、これは紙で読もうと思ったので、翌日越谷レイクタウンのTSUTAYAまで(自転車で)行き、そこで買って帰ってきた。

 
辺見 庸 (著)『月』


目も見えず、四肢も不自由でほとんど動くことができず、声も出せない「きーちゃん」は、「聴き」、「考え」、「想像」する。聴こえる言葉から、情景が再現されて行く。時にはきーちゃんの内面や、夢や、伝えられないゆえに「存在しない」きーちゃんの激痛について語られる。
正味314頁の75頁ほど読んだだけだが、ただ事ではないものを読んでいるのはよくわかる。

辺見庸といえば、以前「脱臼している言葉」という言い方で、現実とつながりのない言葉が蔓延する虚しさと危険を語っていたことがあるが、最近のネット、SNSの普及で、国民みんなでせっせとヤラセだの自演だのを(ひょっとしたら自覚もなく)繰り返しているのを見ると、辺見庸の言葉に耳を傾けることができるかできないかってことが、何かの分かれ道になるような気もする。
ブログなんか書いてるとSEO対策とか言って、検索されやすい言葉や書き方(文章の構成など)を気にすることもあるが、そういうのって、なんていうか、せっかく自分が書いてるものの魂を薄めてるように思えてしまうこともある。
検索されなくてもいいから脱臼はしないようなものを書きたいな、と思う。いつかは。
土曜日の再放送を見て、『月』もじっくり読んで、結論めいたことは求めず、でも何かに向かって考え続けることにしよう。

辺見庸の『もの食う人々』を担当した編集者の方の書評がこちらで読めます(私は『月』を読了してからゆっくり読みたいと思います)。→ブログ海神日和「辺見庸『月』をめぐって」



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