ちょっと前に私の最近のアニメとの接し方について書きました(参照 →デカい柳の下にはデカいどぜう。アニメ『MIX』を観てるら)。
妻と娘の趣味に合わせざるをえないかわいそうなお父さんみたいな印象を与えたかもしれませんし、ある程度そうなのですが、おかげで自分の好みだけでは視聴しなかっただろうな、という面白いアニメに出会うこともあるので、プラマイゼロかな。
ゼロかよ。
今は『鬼滅の刃』がそれです。
最初は気を入れずに「ながら視聴」していたので、田舎の、家族思いで働き者のお兄さんが主人公の「おしん」みたいなお話なのかと思いましたが全然違いました。
まぁ「鬼」だの「滅」だの「刃」だの、不穏な文字が並んだタイトル見た時点で「おしん」なわけないんですが、そこが「ながら視聴」の恐ろしさ。
ブログの更新をしながらの視聴で、「ああ、このお兄ちゃんが苦労して出世するんだろうなぁ」と、加齢で死にかけの脳細胞の片隅で考えていました。
が。
いやまぁ全然違いました。
血まみれの傷だらけの人が喰われる壮絶なお話。
でもだからこそ主人公竈門炭治郎の優しさ、純粋さ、ひたむきさ、家族思いさ、が際立つんですね。
私は原作は未読ですが、アニメを観ているとかっこいいセリフ、泣かせるセリフのつるべ打ちです。文字の本が好きな方にも届くのではないでしょうか。
先日放送された第23話「柱合会議」では、炭治郎の、鬼になってしまった妹禰󠄀豆子が飢えて、傷つけられて、人の血を浴びせられて、それでも人を喰うことを耐えるシーンが出てきます。
耐える禰󠄀豆子が拠り所としたのは、両親、兄炭治郎、弟妹たちと幸せに暮らしていた想い出、そしてなにより自分に注がれた家族たちの愛情でした。
かつて注がれた「愛情」という支点さえあれば、人は鬼になっても鬼としての行動を抑えることができる。
これはなによりの希望だと思いませんか?
私たちは時に鬼になってしまうけれど、鬼としての行動は自分で止めることができる。
炭治郎は鬼が鬼を生み出す「悲しみの連鎖」を断ち斬ると言います。
これらのシーンや言葉で、『鬼滅の刃』は現代の現実と切り結ぶ物語だと確信しました。
きっと作者には見えているもの、目指している場所があるのでしょう。
そして、この漫画が人気があってアニメ化されて多くの人に支持されている。それこそ「希望」だと、そう思います。
もうねぇ、炭治郎応援せざるをえないですね。けな気で。
他にもたくさん魅力的なキャラクターが出てきますが。
でもやっぱり冨岡さんがいちばんかっこいいです。