若い頃には『坊っちゃん』くらいしか読んだことがなかった夏目漱石ですが、ふと思い立って大人の読書計画に盛り込み、『三四郎』、『それから』と読み進んでとうとう『門』にたどり着きました。
『三四郎』『それから』『門』で三部作と言われているようです。
とてもとても穏やかに始まります。
中年夫婦宗助と御米が日当たりのいい縁側で「近来の近の字はどう書いたっけね」「近江のおうの字じゃなくって」「その近江のおうの字が分からないんだ」なんてやり取りしています。
どういう話なんだこの小説は?
と思って読んでいると、宗助は散歩に出かけます。
あちこちぶらぶらしながら、やらなければいけないことがあって日曜日にやろうと思っているとつい寝坊して、そのうち午後になると、用事でこの日曜が終わってしまうのは惜しい気がしてきて、他にやることがあるわけでもないのにそのまま過ごして日曜日おしまい、になってしまう。そんな繰り返し。
なんでしょうこの、ゆるい導入部。
そして誰でも身に覚えがありそうな日曜日の宗助の心の動き。面倒は先送り。「何もしない日」が大事。誰にもあるこの気持ち。「宗助症候群」と名づけたい。
こういう穏やかさと身に覚え感で、間口の広い導入部になっています。
しかし、宗助にはやらなければならないことがあるらしくて、それはどうやら歳の離れた弟に関することらしい、ということがわかってきます。でも「らしいらしい」ばかりではっきりしません。
ちびちびと弟のことが語られるのですが、「やるべきこと」はこれ、と言葉にされないため、読者は「なんだろう?」と引っ張られます。さすが文豪のテク。
弟のことが徐々に明かされていくとその後ろから、この夫婦には別にもっと暗くて重いものがあることがわかってきます。でも仄めかす程度でなんだかはっきりしません。さすが文豪、読者を引っ張りまくります。
読んでいくと、「あ、それがこの夫婦の生活に影を落としてるのね」という過去の出来事が語られますが、さらに読み進むともうひとつの影が見えてきます。
ここまできて、「ああ、『それから』の続きじゃんこれ」とわかります。
宗助と御米は罪を背負って生きていたんですね。
罪を背負いながら、でも日常の生活は穏やかに送っていたんですね。
夫婦は仲良く、お互いを思いやって生きています。弟の問題や、過去の罪さえなければ二人で穏やかに完結した生活を送れていたんですね。
やがて宗助に、罪の影が迫ってきます。
そしてその圧力に耐えられなくなった宗助は禅寺の門を叩きます。
危険が迫った生活(俗世)から逃げ出したんですね。
なんでしょうこいつ。
でも禅寺でも思ったような救いは得られません。
なんでしょうこいつ。
禅寺から帰宅した宗助は、迫っていた過去の罪の影が去ったことを知ります。
季節は春。
御米が言います。
「本当にありがたいわね。ようやくの事春になって」
宗助は縁側で爪を剪りながら答えます。
「うん、しかしまたじき冬になるよ」
すぐ冬になっちまえ。と思ったのは私だけでしょうか。
まぁでも。
偉そうな言い方になっちゃうかもしれませんが。
生きてくってそういう解決しきれないものから逃げて逃げて、先送りにして先送りにして、その果てにただ死ぬだけなのかな、ってちょっと思いました。
いろんなことをきっちり片付けて、ゼロにして死んでくってなかなか無いだろうなぁ、と。
『それから』感想文はこちら → 富めるニートのイラつく話。夏目漱石『それから』を読んだら