「自分は幸せなんだな」という暫定的な結論(その4)

20年前に他界した友人は肝臓がんだった。
努と同じように中学高校と同じ柔道部だった友人。
携帯電話のメールで入院の知らせが届き、見舞いに行き、しばらくすると電話で連絡が入った。
「なんか、…ダメみたいだぞ」
知らせてくれた友人の声が今でも耳に残っている。
次に来た知らせはモルヒネを投与しているというもの。
そして訃報。3月に入ってすぐの頃だった。

肝臓がんだった友人は2ヶ月余りの入院の後のことで、治療はもとより、衰えていく体を自覚するのはさぞ辛く苦しいことだったと思うが、努は「動脈解離」による突然死。
私は、自分が死ぬ時は痛いとか苦しいとか熱いとか寒いとかは無しにしてもらってすーっと逝ってしまいたいなぁ、と常々思っているので、努も「痛い」とか「苦しい」とか少なかったのならいいな、と思っていた。
しかし。
病名だけは聞いたことがある「動脈解離」を調べてみると、

“ 突然杭を打ち込まれたような激痛に襲われる ”

と。
なんと努。そんな激痛に耐えて自分で救急車を呼んだか。ひとり耐えて生きようとしたか。すごいなお前。私だったら諦めちゃいそうだ。ここは柔道部で鍛えた根性で頑張ったと思いたいところだがそれより、激痛に襲われた努が文字通り必死で生きようとしていたと思うと胸が熱くなる。

努の葬式でお経を読んでくれたお坊さんは私たちより少しだけ年上の地元の人で、努の家のことも昔から知っていて、お経の後に努の両親や、弟のこともまじえて懐かしい話をしてくれた。
その話でお菓子屋を営んでいた努のお父さんお母さんの姿や声も懐かしく思い出すことができた。
努のお父さんにはよくバリカンで頭を丸坊主に刈ってもらった。お母さんはとにかく明るい人だった。ふたりが私を呼んでくれる声をはっきり思い出せる。

親戚の方の挨拶によると、努は亡くなる2日ほど前にその親戚を訪ねていて、昔の話などをしたそうだ。その直後の訃報にはさぞ驚いたことだろう。挨拶をされた方は努の実家のお菓子を手伝っていたこともあるそうで、努が小さい頃ということなので、ひょっとしたら私も会っていたかもしれないと、パンのショーケースの向こうに白衣を着た娘さんの姿が目に浮かんだがもちろん偽造記憶だ。

信仰心が薄い私には詳しくはわからないが、もしも、死んだ人の心とか魂が行く世界があるのなら、努は両親や弟のあっちゃんと会っていることだろう。
お父さんとお母さんはニコニコと努を迎え、あっちゃんはメンコをトランプのように切りながらやっぱりニコニコしている。
20年前にあっちへ行った友人が柔道着を着て待っているかもしれない。
「次は誰かと思ったらなんだ努か」
とか言いながら袖を掴んで技をかけているかもしれない。
ふたりで
「次は誰かな?」
「意外と寺さんだったりして」
とか言ってるかもしれない。
まだ呼ばないでくれ、誰も。そのうち行くからもう少し。

そして出棺。
皆で入れたたくさんの花に努が埋もれている。
皆が手を合わせる中、棺が閉じられる。
霊柩車に納められる。
クラクションを鳴らして走り去る。

平日ということもありここまでで帰る者もいたが、時間があれば火葬まで同行できるとのこと。

さあ。
努の骨を拾いにいくか。

(つづく)

*富士宮の浅間大社から撮影した富士山。葬儀中にちょっと驚くハプニングがありましたが、詳述はしません。ただ、不測の事態に的確に対応するつんちゃんには感心させられたことだけは書いておきます。

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