「自分は幸せなんだな」という暫定的な結論(その1)

偶数月の第一土曜日は恒例のお楽しみ遠足。西暦2024年の2月3日は新橋駅集合からの月島もんじゃの旅。
なんだか計算を間違えて妙に早い電車に乗ってしまった私のコートの胸ポケットでiPhoneがプルプルフルフルする。
ああ、また恒例の、集合前の、「家を出た」だの「そんなに寒くない」だのLINEでのそんなやりとりか。これはこれでいつもの楽しみのひとつだが。
しかし。
なんだかLINEの通知にしてはプルプルフルフルが長い。
なんだろう?
iPhoneを取り出して見ると音声通話のお知らせ。高校の柔道部仲間のつんちゃんからだ。なんだろう?電車内だから出られないが。
すぐにつんちゃんからLINEのテキストが届く。

「寺さん、努が死んじゃった。
とても悲しくてたまらんよ。」

ああなんと。

努が死んでしまったという連絡。

努とは中学高校と柔道部で一緒だったのだが、私にとってはそれどころではなく。
家は歩いて30秒くらいのご近所で。
もういつから遊んでいたのかわからないくらい幼い頃からの友人だったのだ。
物心ついた時にはそこにいた、私にとっては一番旧い友人なのだ。
その努が。
「死んじゃった」

到着が早すぎた新橋駅からつんちゃんに電話。
昨晩救急搬送された病院で死亡したとのこと。動脈解離で心臓に血が溜まってしまったとのこと。
努はひとり暮らしで身近に親族がいなかったため、つんちゃんともう一人の柔道部の仲間で親族を探して連絡を取ったりいろいろ手配しているとのこと。
ああもう。なんでしょうこの、いい人たち。
そこでちょっと泣きそうになったよ。「人情」がここにあったよ。柔道部、稽古とか辛いこともあったけどそこではこんなものも生成されてたよ。

ひと通り状況を聞いて電話を切る。葬儀の予定などはこれからだそうだ。
衝撃の知らせだったがこの時点で東京にいる私にやれることは無いので、予定通り集まったこっちの友人と月島もんじゃめがけて歩き出す。
いつもの仲間といつものように楽しく過ごしながらも時々努のことを思い出していた。

努とよく遊んだのは近所のお稲荷さん。
近所の子供が集まって缶蹴りやらメンコやらドロボーと警察やらとにかくよく遊んだ。
小柄だった努は缶蹴りになると思いもよらないところに隠れてなかなか見つからなかった。
ある時、努だけいつまでも見つからなくて、鬼だけでなく全員で探しに探したところ、お稲荷さんの縁の下の何やら資材の間に隠れていたことがあった。
「いたぞ!」
誰かが見つけて、私も覗き込むと、縁の下の奥の奥に努の顔が見えた。目だけが不気味に光っていた覚えがあるが、ちょっと補正された記憶かもしれない。あれは多分「いいかげん見つけてよ」と顔を出したんだと思う。その気になったらいつまででも隠れていただろう。夜まででも、次の日まででも。

努にはあつしくんという、確かひとつ下の弟がいて、みんなから「あっちゃんあっちゃん」と呼ばれて可愛がられていた。
努と並ぶと兄弟以外の何ものでもないくらい似ていたが、年下というだけでなくあっちゃんの方が可愛らしかった。
その反動か努はちょっと粗末に扱われていた。
あっちゃんはメンコが強くて、本人も自覚があったのだろう、「メンコなら負けない負けたくない」という気迫があり、小柄な体をフル回転させるような打ち方でバシバシ勝っていた。当時はそんな言葉はなかったが、メンコをしているあっちゃんの「ドヤ顔」を何度も何度も見た気がする。

しかしあっちゃんは小学一年だったか二年だったかそんな頃に交通事故で死んでしまう。

お稲荷さんからあっちゃんの姿は消えてしまったのだが、あっちゃんが亡くなってから努とあっちゃんの話をした記憶はない。努も思い出すのは悲しかっただろうし、私もどう触れていいのかわからなかったんだろうと思う。
随分経ってから(中学生だったような気がする)努の家に遊びに行って、お仏壇ではないところに小さな額に入れられたあっちゃんの写真を見つけて「ああ、あっちゃんだ」と思ったのを覚えている。

小学校での学年が進み、お稲荷さんで遊ぶことも徐々に減っていった。お互いに新しい友達が増えていくに連れ、努との友達付き合いの「割合」みたいのは低下したとは思うが、なんていうか、「居て当たり前」っていうか「努は努」くらいの距離感ではあったとは思う。友達でいてくれることを疑いもしなかった。でもそれがどんなに価値あることで、得難いものであったのかを知るのはずっとずっと後のことだった。

次に努との関係がさらに濃く、決定的になったのは中学校に入ってからだった。
ふたりとも柔道部に入ったのだ。
いや、俺はわかるよ。目立つほど体デカかったし。柔道向いてる感じじゃん。
でもほら、努ちっちゃかったじゃん、目立つほど。柔道向いてない感じじゃん。
でもそれが。
今思えば。
ふたりとも人生を決定づけられたんじゃないかと。
六十過ぎた今ではそう思う。
あの時柔道部に入らなかったら辿れない人生だったと今ではそう思う。
どんな選択をしてもそれなりに辿る人生があっただろうよ。でもこの人生だったし。努も俺も。
唯一無二の人生の、大きな分かれ道があそこだったんだと今では思う。

月島で入ったもんじゃ屋さんは、もんじゃだけは店の人が焼いてくれるシステムで、その正式な焼き方(そんなもんがあるのなら、だけど)に見入ってしまった。

まず野菜パートを鉄板で細長い長方形に整える。
金属ヘラでこれでもかってくらい小刻みにザクザクする(この手際は惚れ惚れする)。
ザクった野菜の真ん中にヘラを入れ、ザーッ、キュ、と真ん中が楕円形に空くように開く。
開けた真ん中に液体パートを流し込む。
焼けるまでしばし待つ。
いい具合だな、と思ったら食べる。

もんじゃの無い土地で育った私は「もんじゃ慣れ」できていないが、東京下町育ちが言うには「食べ方」もあり、

ヘラで押しつける。
手元に引き寄せる。
ヘラを裏返してヘラに貼り付いているもんじゃを食べる。

だそうで、ヘラですくって食べるものじゃないらしい。つかダメらしい。すくっちゃ。
「すくうやついるんだよなー」とか言ってる。
まぁあんたらがそう言うんならとやってみるがなかなかうまくいかない。
この仲間で何度ももんじゃ焼きを食べてるが、この食べ方の話は初めて聞くような気がする。
私が忘れているだけの可能性も70%くらいはあるが、プロの焼き方を見た下町っ子がなんか言いたくなった可能性も無きにしも非ずだな、とちょっと思った。そうじゃなかったらゴメンね。
ああそういえば柔道部に入らなかったらこの仲間たちとも出会えてなかったんだよなぁ。そして妻とも。

すまん努。

お前が死んだのに食ったり笑ったり、俺は楽しく過ごしてるよ。

もんじゃの後はいつものようにカラオケに行き、なんか足りないのでイタリアンの店で飲み、その日はお開き。
ああ
楽しかった。
いつもの通り。鉄板の楽しさ(もんじゃだけに)。
同じ方向に帰る三人で電車に乗り、途中で別れ、電車のシートでひとりぼっちになったらなんだろう。
ちょっとだけ。
周りの乗客に気づかれない程度に、泣いてしまったよ。

(つづく)

*写真は努とよく遊んだお稲荷さん。2007年撮影。私たちが遊んでいた頃と比べるとだいぶきれいに補修されています。右下にちらっと映っているのは4歳だった娘。この写真を撮った数年前、柔道部の仲間がひとり他界しています。2004年のことなのでちょうど20年になるんですねぇ。その時のことは以前こちらに書きました →「距離」興味がある方はどうぞ読んでください。死ぬほど長いけど。
あ、「死ぬほど」は不適切か、こんな際に。

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