『2001:キューブリック、クラーク』を読了したら

第1章から5章までの感想をアップしたのが今年の4月14日の日付になっているので。4ヶ月ほどかかって第6章から第12章、「謝辞」、「監修者あとがき」まで読み終わりました。そのあとに「索引」がありますが、そこはサーっと目を通しただけです。
原書には31ページにわたる「原注」があるそうですが、それはこの日本語翻訳版では割愛されていて、早川書房の公式サイトでの公開になっています(これを書いている段階ではその「公式サイトの原注」を私は見つけられませんでした。探し方が悪いのかそもそも公開されていないのかは不明。ちなみに電子書籍版には収録されているそうです)
第1章から5章までの私の感想こちら →『2001:キューブリック、クラーク』を第5章まで読んだら

第6章から最後までの感想

『2001:キューブリック、クラーク』“Michael Benson, Space Odyssey: Stanley Kubrick, Arthur C. Clarke, and the Making of a Masterpiece”https://amzn.to/2ZcJYcA

第5章は、ダグラス・トランブルもボアハムウッド(撮影所がある地名)にやってきて、キューブリックが「さあ、とりかかろう」と宣言したところまででした。
ここから本格的な撮影が始まったのでした。

何が正しいかはわからないが「それは違う」ということだけはわかるスタンリー

思えば。
気づいた時には「SF映画の最高傑作」という「完成品」として私(たち)の前に現れた映画『2001年宇宙の旅』。
もうそれは歴史の一部。そうあって当たり前のものでした。
あそこはああだし、あそこもあそこもああなんだ、と。あとは観る者が「解釈」するしかないんだよ、と。
実際に映画を観る前からそんな「解釈」ばかり頭に入れて、なんか耳年増みたいな時期もありました。
そんなだったので、映画そのものを観ても「解釈」の確認みたいになってしまって、映像の「製作」についてはあまり考えたことがありませんでした。

映画『2001年宇宙の旅』は、完成品としていきなりボコッと現れたわけではなく、相応の過程を経て『2001年宇宙の旅』になったということがこの6章以降を読むとよくわかります。
いやもうほんと。
そうだよねー、人が何か創るということはそういうことだよねー、と感動します。
キューブリックでさえこの着地点がわかってはいなかったようです。
6章の初めの方にこんな記述があります。

見たところ現場は混乱していた––影響の大きいプロットやコンセプトの差し替え、どたんばでのデザインの変更、いつまでも決まらない細部の演出方針

キューブリック試行錯誤しながら撮影を進めていきます。
正解はわからないけど「それじゃない」ということだけは明確にわかるキューブリックの前に「錯誤」の山が築かれていきます。
それを支えたのはキューブリックの実績、実力、胆力はもちろん、優秀な人材(クラークは終わりのないストーリーの改善を引き受けていました)、メジャー映画会社の潤沢なリソース(要するに莫大な予算)でした。
このあたりの右往左往っぷりは、『2001年宇宙の旅』を、まず「完璧な出来上がった完成品」として受け入れ鑑賞していた私には新鮮でした。
無重力シーンなどあまりによくできているため、「スタント」という要素が頭に浮かぶことはありませんでした。
でも本書を読むとかなり危険なことをしていたことがわかります。
あの完璧なデザインの宇宙服を着ての演技がいかに重労働で、危険であったことも書かれていました。
また、キューブリックは撮影現場でポラロイド写真を撮りまくっていたそうですが、その理由なども書かれています。これから読む人のために詳しくは書きませんが、それも映画の完成度のためでした。
キューブリックに関する記述がほぼ映画製作に関わることに絞られているのに対して、クラークに関しては製作と離れた私生活についての記述も多く見られます。
クラークは、映画製作ではキューブリックに振り回され、私生活ではセイロンにいるパートナー(男性)に振り回され、金銭的にも恵まれない日々を過ごします。
このあたりは読んでいて同情する人も多いのではないでしょうか。たいていの人は何かに振り回されて生きてますからね。

私にもダメだとわかるNG猿人

第7章から8章にかけて「人類の夜明け」シーケンスに関する記述が続きます。
猿人の特殊メイクにはとても苦労したようです。
本書P.310にNGの猿人写真が載ってます。
もしもこれが出てきたらあのシーンもあのシーンもさらにあのシーンも台無しだっただろうな、とキューブリックではない私でもわかります。
誰かに似てるんだよなーこの猿人(興味のある人は本書を購入するか本屋さんで見てください。愛おしいその姿にそのままレジに行きたくなりますよ)。
猿人シーンの撮影も宇宙シーンに負けずに過酷だったようで、キューブリックの人でなしエピソード満載でした。
猿人スーツ着用で屋外の撮影が可能か、撮影用ライトで高温にした部屋で試したりしています。役者さん、倒れるまで50℃の室内を行ったり来たりしていたそうです。
キューブリックは旅行嫌いだったそうで、ロケに行きたくないばっかりにこの撮影がロケに適さない証明をしたかったのだという証言もありました。

伝説と偶然と誤解

音楽についてもかなり紆余曲折あったようです。
重要なシーンでクラシックを使っていることがあの映画の特徴でもあり、キューブリックの天才の証明みたいに語られることすらあったのに、そもそもはそんなつもりじゃなかったそうです。あんなにぴったり映像にマッチしているのに意外でした。
また、私が以前読んだものには、「キューブリックは映画の終盤に異星人を出すつもりでいて、その容姿の候補の中には水玉模様のタイツを着たバレリーナもあった」というような記述があり、そんなもの出さなくて本当に良かったな、と思ったものです。
こんな感じのを想像してましたから↓

ところが、本書で紹介されている「水玉の異星人」はちょっと違っていて、映像化されたら見てみたいと思うような独創的な工夫に満ちたものでした(写真あり)。
キューブリックが求めていたのは、

信じがたいほど信じられる異星人もしくは、信じられるほど信じがたい異星人

でした。
観客の想像をはるかに超え、なおかつ実在を納得できるような姿を求めていたようです。
矛盾しているようですが、才能がある人というのはそういう目標を持ってしまうんだなぁ、とも思います。
完成した映画を見た後では、どんな姿であれ『2001年宇宙の旅』に異星人は出さなくて正解だったと思いますが、もしもキューブリックが納得する異星人を作り出すことができていたら、そちらが「完全な完成品」として受け入れられたのかもと想像してしまいます。
いや。
やっぱり異星人は出なくてよかったかな。

とてつもない労力の末、映画は完成しました。
本書の最初には公開時には不評だったというような記述がありましたが、それも間違ってはいないけれども正確ではないということが「第11章 公開」を読むとわかります。筆者はあえてこういう構成にしたのでしょう。


最終第12章は「余波」。
キューブリックに振り回されたり、『2001年宇宙の旅』という映画の起こした波で人生が変わってしまった人たちがいました。
アーサー・C・クラークも映画製作中は振り回されっぱなしで気の毒に見えましたが、その後の『2001年』がらみの著作の数々を見れば良い波に乗ったと言えるのでしょう。
キューブリック本人もこの映画の波で人生が変わっていますし、本書の著者マイケル・ベンソンもその一人だと思います。

というわけで。読み応え満点の本でした。
私がはっきり書かなかった部分が気になる方は本書を読むべきでしょう。ここで触れたことなどほんの一部で、もっともっと面白い話が満載です。

私はこれから映画を観ようと思います。
何度も鑑賞している『2001年宇宙の旅』。
今までは「完成品」をただ受け止めるだけでしたが、本書でいろいろ知ってしまった後、どんな感覚で映画を観られるかとても楽しみです。

blinkani
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